GGUSⅢ日記

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キングダム 見逃し

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キングダムで秦の始皇帝、嬴政(エイセイ)の名が、若い人々にも知られる様になりました。

 

 

本場中国での始皇帝のイメージは、豺狼(さいろう)の声をして、無慈悲で恐ろしい王様という印象の皆様が、多かった様です。

 

 

呂不韋(りょふい)に"奇貨居くべし"と言わしめて、始皇帝の父の頃、彼の策謀によって連綿と続いた呂不韋の傀儡(かいらい・・・操り人形)として秦のトップレベルにまで成り上がったというストーリーが、一般的です。

 

 

若かりし嬴政の頃は呂不韋の傀儡の子として育てられた。

 

 

そして秦の君主に即位して本来なら恩のある呂不韋に死を授け、自らトップに立ったのが嬴政。

 

 

呂不韋にしてみれば、自分の愛人を嬴政の父親に献上してまで、秦の経済や権力を恣(ほしいまま)にして来ました。

 

 

秦の始皇帝は薄々、自分の出自を知っていたのかもしれません。

 

 

となれば、彼は父を剋して国のトップになった・・・?

 

 

斎藤道三と義龍に重ね合わされる様な、イメージもなくはない・・・?

 

 

彼の母親は、彼が本当の血筋を引いているのかいないのかに謎を残して、世を去りました。

 

 

そもそも彼女は呂不韋の愛人だった。

 

 

それが嬴政のトラウマにもなっていたと・・・。

 

 

司馬遷はそれを史記で、臭わせていた・・・?

 

 

始皇帝登場以前からかの地・大陸では中原という発想があって、春秋・戦国時代以前の国家 ”周” でさへ西戎扱いで、化外(けがい)の民族だった。

 

 

その周より更に西方の国が、秦だった。

 

 

中原の国家からしてみれば、周も秦も "西戎" すなわち西の野蛮人扱いだった。

 

 

始皇帝が現れる前から、秦は中原の国々から有能な人物を登用していました。

 

 

百里奚(ひゃくりけい)、商鞅(しょうおう)、范雎(はんしょ)などが有名で、彼ら毎(ごと)の小説が、あるくらいに昔から有名です。

 

 

秦では寝室も食卓も同じ部屋で執り行っていてそれが野蛮だという事で、中原の習わしやシキタリを取り入れて、洗練された中原の様式を積極的に取り入れていたと・・・?

 

 

秦に登用された人々の中でも特に商鞅は、韓非子の流れをくむ法家の人だった。

 

 

法家とは法律で国の基(もとい)を築くべきという発想で、彼は有名な天才肌だった。

 

 

法家と異なる思想は既に、春秋戦国時代には色々あって、当時の事を諸子百家の時代と言われる程、様々な思想や考え方がかの地・大陸では誕生しました。

 

 

孔子儒教や、老子の道(タオ)・道教墨子の博愛主義や国際的連携を重視する縦横家等々、特に孫子の兵法は有名・・・。

 

 

中でも商鞅は法家のその法によって、非業な死を遂げたというイメージがかの国・大陸の民には染みついていて、元々中華思想な彼らには、法と個人の生存権との間での解釈構造が、この頃まだ縄文・弥生時代な東夷の列島の民とは色合いの異なる感覚が、邪推あるいは示唆されます。

 

 

西遊記などでも伺える様にかの地・大陸の人々には、神と人間は同位置的に捉えるかの様な視線は、一神教(キリスト教イスラム教)では考えられない発想です。

 

 

それこそが、中華思想のイメージとも思えなくもない・・・?

 

 

その点において仏国との中華思想とは、ニュアンスが異なって来る様な気もします。

 

 

さて秦の将軍では、王翦(おうせん)が有名で、老齢になって始皇帝 政より戦いの命令が下された時に、彼は多くの謝礼を望んで秦の軍事力の大半を指揮して、戦に出かけた。

 

 

この将軍は政の猜疑心を知り抜いていて、自分に謀反の心の無いことを、欲張った恩賞でかわしたとして有名な逸話になっています。

 

 

白起将軍も有名で、天才的な戦いで功績を収めたのが、本国の猜疑を買って自刃に追い込まれた将軍として有名です。

 

 

彼はチビだったそうです。

 

 

にもかかわらず敵国には大いに恐れられた、辣腕を振るった将軍です。

 

 

周は封建制を取り入れて、その制度の成り行きを見事なまでにトレースして、その終末期は末端の地位の国々(夷狄:いてき ≒ 野蛮・未開発な国々)が中央をしのいで、その中央たる周自身は先細りして行き、ついには朝貢していた化外の国々(夷狄の国々)に覇権を奪われて、援助を求める立場へと凋落して行きました。

 

 

夏王朝は殷(商)に、殷王朝は周に斃(たお)されて国の名はそのたびごとに変わり、その交代劇を易姓革命(えきせいかくめい)と言われてきました。

 

 

彼の地・大陸では、多くの民族が覇権を巡って争っていたし、中華思想も手伝ってか、ジェノサイドが基本だった。

 

 

言葉も習慣も異なる民族が、陸続きでせめぎあう大陸では、易姓革命 ≒ 大虐殺 の歴史を歩まざるを得なかった・・・・?

 

 

彼らから見て東夷の国は当時、まだ国家としての体はなさず、ジェノサイドもなくて平和で穏やかな採集狩猟生活を1万年以上も続けていた。

 

 

当時以前から清・中華民国という国家に至るまでの時の流れの中で、かの地・大陸の国々の民族たちは海へは、・・・海の向こうへは、関心が無かった。

 

 

かつて台湾に漂流した日本の民が、台湾の人々の手で虐殺された時、明治政府はその責を追及して清に賠償を求めたが、化外の島ゆえ清にはかかわりが無いと拒絶された程だった。

 

 

というワケで秦の統一前後でも、敗戦の憂き目に遭った国々は海へ出て、この国に漂着した人々もいたのかもしれません。

 

 

海へ出てしまえば、命が助かるかもしれない。

 

 

大陸にいては何時かは、殺される。

 

 

海に出てしまえば、助かるかもしれない。

 

 

かの地・大陸では大航海時代以前、明(みん)の頃、鄭和がアフリカまで赴きましたがそれでもなお、かの地・大陸の歴代の国々は海外への関心は薄かった。

 

 

ちなみに鄭和はアラブ系の宦官だったという事です。

 

 

鄭和の目的は、明という中華の国の偉大さを化外の地へ知らしめるプロパガンダで、西欧諸国の植民地支配とは違った発想だった。

 

 

かの大陸が海で関心を持ったのは、殷(商)の占卜に使用されていた亀甲と子安貝くらいだった。

 

 

フカひれもキンコ(ナマコの干物)も清の頃の日本からの輸入で、中華料理のレシピに登場したくらい。

 

 

今頃になって太平洋も東・南シナ海日本海・インド洋すらわが領海などと、寝ぼけた虎の遠吠えの様なイメージ・・・?

 

 

話がそれましたが、秦の始皇帝は旅行中に亡くなり、宦官と愚昧な息子によって敢無く滅亡しました。

 

 

始皇帝は初めてかの大陸を度量衡で統一した人だった。

 

 

かの地・大陸の発想・思想は易姓革命のもと、連綿として今なお近隣諸国を脅かしています。

 

 

キングダム恐るべし!

 

 

 


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