GGUSⅢ日記

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初詣・お詣りとかお寺さんの徒然


年末年始になれば、お参りで良くオジャマするお寺さん。あるいは、供養やお墓詣りにとかも・・・。

さて一般的に、キリスト・イスラムユダヤ教は信仰すると言われ、仏教では信心すると言われたりしています。

神は天上にあるのが一神教(キリスト教イスラム教・ユダヤ教)で、仏は信心する者と共に内にある・・・?この辺りで仏教は、チョッピリ色合いの違いがありそうな気がします。

仏様の周りにはお花も添えられたリ、そもそも日本の寺社には水気というか水面が多いし、ウッソウとした樹々のあるイメージもするし・・・。

そもそもお釈迦様も、ほぼほぼアーリア人一神教の皆様と同じ民族で、キリスト様とご同様、かつて生きていたお人。

そのお釈迦様の教えは大陸の東へ東へ広がって行って、他の宗教とはその点も違って、広がって行きました。発祥の地が北インドだったからかもしれません・・・。

お釈迦さんは修行で解脱を、悟りを目指して出家。煩悩を乗り越えて、真理を追い求めて覚悟して、説法を生涯に尽くして涅槃に・・・。

解脱すれば輪廻転生からも時空からも、解放される状態に・・・?

お釈迦様は説法の際、口伝を常としていた。記録を厭い、お経も読まなかったし、阿弥陀も菩薩もいなかった。何を祀りなさいとか、豚肉を食うなとか、決められた時に祈れ、とも言わなかった・・・。

比丘尼(弟子)の説法がお釈迦様の入滅後も続いて以降、阿弥陀や菩薩が生まれて、お経も唱えられる様になって、気が付けば宗派も色々と生まれて行った・・・。

キリストのもとでの、サンタクロースや讃美歌なども同様のあり様なのかもしれないけれど、その辺りの事は話しがそれるのでこの辺りで・・・。

日本に上陸した仏の教えは、つまり半島と大陸から海を越えてやって来て以来、こちらからも数回にわたり出向いて、修業にも少なからず当時は命懸けで渡航して勉強しました・・・。

そのつながりは、当時のトップクラスの鑑真和上も、幾度も幾度もチャレンジして視力を失ってでも、来日されたという強烈な情熱をもって、この列島にも釈迦の教えが、どんどん伝来したワケです・・・。

その頃既にこの国には神社があって、若干の衝突はあったモノの、一時期は融合したかのようにまとまったり離れたりして結局、共存して今日まで続いています。

私たちの多くは多分に何のためらいもなく、年末年始はお寺や神社に何ら区別なくお参りに・・・。誰に文句を言われることもなく、お参りしようがしまいが自由に、偏見も無ければそれらの事に関しては、なんら強烈なこだわりもない・・・。

これって世界的に見れば、普通ではない・・・?思えば、一方で宗教の弾圧は、お国お国で未だに無いとは言えない世界。

さて、この国でもお寺の喧しさが理由でなのか、遷都もあったし、焼き討ちもあった。権力がお寺に伴う時、他の権力者に疎外されたり、駆逐されかけたりもありました。

当時はそれに関わる人々にとってはナーバスで、微妙な問題だったのかも知れません。

さて今、結構有名なお寺と言えば、大仏さんの東大寺聖徳太子法隆寺比叡山延暦寺高野山金剛峯寺・・・。

京都では清水寺とか金閣寺や神社も沢山あります。それは、それらのお寺のソモソモの建立の意味よりも観光スポットとして有名になっての事の方が、多分なワケで知られる様にもなったと、言えなくはないかもしれません。

ソモソモ沢山あるお寺の建てられた意味を、時にならって考え直してみた時、一つの歴史が見えて来て面白そうです。

仏教が伝わった当初は、「こんな話を聞いて来た」から始まったのでしょう。でその詳細を聞いて複数の人々が興味を持ち、そのお話が時と共に蓄積されて、そのうち独自の捉え方なども模索されて、ますます複数の人々に知られる様にもなって、ついにはお寺も建てられる様になった・・・。

それには相当な費用が掛かるし、富と材料と建立する人々も必要・・・。時に寺の建立は国家事業であったし、ある時には有力者の下でお寺は建てられた・・・。

お寺に応分の費用がかけられたのは、権力の象徴でもあり広告塔の意味合いも、また臣民の安寧を祈願したりとかもあったでしょう。だから、エネルギーを費やしてお寺を建てた。

一方で寺社に権力を募集すれば、他方の権力者の権力を奪う事になる。それでも権力者同士が争わずに共存するには、一方の権力の移動という方法も考えられて、平安遷都というのはそう考えると、一つの手段だった。

権力は時と共に、それを持つ者をとっかえひっかえされて、表情も変えて流転する。具体的には貴族から武士への台頭とか・・・。同時にそれを獲得した者の個性で、統治の方法も当然変わって行く。

そんな事もあって寺々には多少の権威は残るモノの、その権力は往事よりも徐々に削がれて行って、それぞれのポジションで落ち着く事になり、それを維持できるものは残り、廃れる者は消えいく・・・。

それと同時に、仏の教えに研究熱心な人々は、時と共に色合いを変える様々な、新たに出会った仏の教えを追求して、研究しては独自の発想を加味して説法を行う。

当初、釈尊が興した悟りの手法には無かった、後の信奉者たちの様々な物語が、悟りへの手法に加味されて、例えば仏像が彫られたり、経典が産まれたり、お経も読まれる様になって、

小乗とか大乗とか戒律とか、当初あった緩い縛りが経年の変化で、独自に確固たる取り決めの様になって、それが宗派を差別化する記号になって行く・・・。

そんなコンナを行ってきたお寺さんから生まれた文化は、例えば喫茶や瞑想、造園、加工食品、etc.を産み出して、何より庶民教育にも貢献して来ました。

人々の生殺与奪も握った事もあったでしょう、同時に文化にも貢献した。

その事の始まりは、釈迦の出家から始まった・・・?